諸井誠:プロフィール

 1930年12月17日生れ(東京)。1952年3月東京音楽学校本科(現・東京芸大音楽学部)作曲科卒。黛敏郎、入野義朗、柴田南雄等と20世紀音楽研究所を組織し、57年から65年にかけて、軽井沢を中心に、大阪、東京などで移動現代音楽祭を開催。12音音楽、電子音楽等をいち早く取り入れ、また、1960年代から尺八を中心に各種邦楽器をも手がけ、邦楽器とオーケストラの結合を企図した独自のジャンルを開発するなど、現代音楽における先駆的存在として活躍し、国際的評価を得た。作品としては、《オマージュ・ア・JSB》4部作、《無伴奏フリュートのためのパルティータ(M0801)》、《協奏組曲(M0815)》、《BACHの名による幻想曲とフーガ(M0816)》、《ラメンタ' 79(M0814)》の4曲を始め、《ピアノのためのαとβ》、組曲《希薄な展開》、《ピアノ協奏曲(M0817)》、尺八現代本曲《松籟五章(M0803)》、《対話五題》、三重奏曲《有為転変》、協奏交響曲第1番《偶対》、協奏交響曲第3番《神話の崩壊》、《竹林奇譚 巻之壱「斐陀以呂波」(M0809)》等多岐に渡る。専門音楽教育活動とも取り組み、広島のエリザベト音楽大学を皮切りに、桐朋学園、東京藝術大学、お茶の水大学、大阪教育大学、大阪芸術大学、神戸女学院大学、明治学院大学等で教鞭をとった。
 1980年代には専門的に音楽評論活動を行い、日本アルバン・ベルク協会を設立。初代会長を皮切りに長年理事長並びに会長代行等をつとめたが、現在は名誉副会長となって運営委員の座から去った。

 1990年代は財団法人埼玉県芸術文化振興財団が設立されるに際し、中心的創設メンバーの1人として、彩の国さいたま芸術劇場初代館長に就任するのと平行して、1997年4月に芸術総監督に就任。99年4月には、理事長を知事より禅譲される。2004年3月、知事の交代にともない理事会から離れ、2005年3月には芸術総監督をも辞すると同時に、埼玉県での公職のすべてから解放され、鎌倉に移住して、音楽芸術を本職とする本来の創作生活に戻った。財団在任中の10年間には、1500を越える舞台芸術とかかわる各種公演を手がけ、RSCを招聘しての「リア王」(蜷川演出)等、シェイクスピア・シリーズを始め、ヴッパタール・タンツテアター(独)、NDT(蘭)、ラ・ラ・ラ・ヒューマン・ステップス(加)、ローザス(伯)等、海外の著名な劇団や名流舞踊団の招聘に尽力すると同時に、ピナ・バウシュやイリ・キリアンへの委嘱作品を世界初演し、多大な成果をあげ、第3回朝日舞台芸術賞グランプリ、読売演劇賞優秀作品賞などを受賞。1953年度エリザベス女王国際音楽コンクール(作曲部門)において日本人として最初の受賞者(第7位)となったのを始めとして、ISCM国際現代音楽祭に3度入選(オスロ、バーデン・バーデン、ストラスブール)。またローカルな賞としては関西クリティック・クラブ金賞、2000年埼玉文化賞社会文化部門、2004年さいたま市文化賞、飛騨古川音楽大賞創設記念賞等も受賞している。1995年には、長年にわたる作曲活動の功績が認められ、紫綬褒章を受章。執筆活動も盛んだった時期があり、「ロベルトの日曜日」はじめ、「音楽の見える時」、「音楽の現代史」「オペラの時間」等があり、共著としては、ピアニスト 故・園田高弘との「往復書簡ベートーヴェンのピアノ・ソナタ分析と演奏」、「往復書簡ロマン派のピアノ曲」、文芸評論家 故・篠田一士との「世紀末芸術と音楽」などがある。

 2010年3月ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全32曲と取り組んでの5年がかりの労作「諸井誠のベートーヴェンピアノ・ソナタ研究」上・中・下3巻本を完結。その後も石橋メモリアルホールのレクチャーコンサート・シリーズ「ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ革命」(全4回)など、折にふれて、この種の講演活動を続けていた。

 2013年9月2日永眠。